キリストに導かれて。
(年齢などはお書きいただいた当時のままで表記しています。)
H・Y さん
私の証し

今年もまた大切なクリスマスが訪れます。私が枚方希望教会を初めて訪れたのも、2000年クリスマス燭火礼拝の夜でした。
その日、午前中は、友人のお嬢さんが寝屋川の教会のクリスマス礼拝式で洗礼を受けることになったと知らせを受け、参列者のつもりで出席しました。帰宅して、電話でHKさんにその話をすると、うちの教会にもいらっしゃいと誘われ、その夜、またも初めて枚方希望教会の燭火礼拝に出席しました。そのことがきっかけとなり、私の中で別世界だと思っていた受洗の恵みにまで至りました。
思い返せば、私は若いころから「友の会」に入っていて、毎回読む羽仁もと子さんというクリスチャンの著作集に感銘を受けていました。また、その会で公共部の係りをしたときに接した方が、世の中で貧困に苦しむ人を支援されているクリスチャンだったことからも、信仰のすばらしさを感じさせられていました。
いつしか聖書に興味を持つようになり、友人に声をかけられては、家庭集会や教会に行く機会も時々あったり、大阪教会の入門講座を受けたりしていましたが、今思うと、それはただの憧れだけで、聖書の内容はあまり分からなかったように思います。
それが、主人の病気とその後の死去により、神様はそんな私をとらえてくださったように感じます。私は罪を悔い改め、神の子としていただきました。
しかし、私の傲慢さが災いしてか、受洗後10年も経って教会生活に行き詰まりを感じることがありました。
そんなとき、一人の方が「聖書通読と祈祷会に行きませんか」と声をかけてくださいました。元来、私はお祈りすることが苦手でした。その私がまさか祈祷会に行くなど考えられないことでしたが、そのとき私は素直に「行ってみようかな」と思いました。きっとこのままではいけないと思っていたからだと思います。それは昨年の春、ちょうど聖書通読が出エジプト記の初めの頃でした。
毎週水曜日の夜、送迎の助けもあって、今日まで出席を続けてこられました。今は、詩篇を読んでいますが、旧約聖書はとても難しく、私には読んだだけでは少しも分からなくても、習慣となった通読と、朝川先生の丁寧な解説の助けで、私にも分からせていただけるこの恵みを、皆様とも分かち合いたい思いです。
お祈りもまだまだですが、自分の気持ちを神様の前で素直に出せるようになってきたことはうれしいことです。
元来、至らない人間ですが、今年は友の会でのお役を通して、自分が活かされ、周りが活かされるために、私が用いられるという喜びを、味わせていただいています。今年のクリスマスは、今までにない喜びと感謝で過ごせることを幸せに思います。
K・U さん
救いの証

私と教会の歴史は、私がまだ母のお腹の中にいる頃から始まっています。その後、生まれてから今日に至るまで、本当の意味で教会と私との関係が断たれたことは一度もありません。文字通り、教会と共に人生を歩んできました。
しかし、その歴史が信仰的であったかというと、決してそうではありません。今までも、そしてこれからも、自分自身の中に深く根付いている罪との戦いから逃れることはできません。私にとって信仰の歴史とは、罪との戦いの歴史そのものです。
物心つく前から教会に通っていた私は、特に深く考えることなく「神様」や「教会」という存在を認識していました。しかし、成長するにつれて、少しずつ違和感を覚えるようになりました。学校の友達は「神様」のことを信じていない、「教会」に行っている私は「ヘン」なのだと、自分の家がクリスチャンホームであることや、自分が教会に行っていることに対して引け目を感じるようになりました。
その後、思春期になるとそのコンプレックスはますますエスカレートし、クリスチャンホームや教会のことを隠すだけでなく、友達から疎外されることを恐れて、初詣に行き、見よう見まねで手を合わせたり、仏式の葬儀で焼香を焚いたりしたこともあります。
三人の兄が次々と受洗していく中で、私だけが頑なに受洗を拒み続けました。長い間、神様ではなく人の目ばかりを恐れている私に洗礼を受ける資格はないのだという考えに囚われ続けていました。自分の意志ではなく両親のためという思いで受洗することは間違っている、心から洗礼を受けたいという思いが起こされるまでは、無理に受けるべきではない、との考えを曲げることができませんでした。
しだいに、周囲からの「早く受洗すべきだ」という空気を疎ましく感じるようになり、同時に信仰そのものに辟易するようになりました。いっそ信仰と無縁になれれば、面倒な思いをせずに済むのに、とさえ思っていました。
そんな私が信仰と向き合うきっかけが、ある異性との交際を通して与えられました。その交際の中で、信仰を深めたいという思いと、自分の中にある罪の両方が示され、受洗の思いが起こされました。それまで執拗に拒否してきた「信仰」が、驚くほど自然に自分の中に芽生え、神様の摂理が心に迫りました。「わたしもあなたを罪に定めない。」ヨハネの福音書8章11節)。
どんなに立派な信仰を持った人でも、神様の前には誰しもが罪赦された罪人でしかありません。大切なことは、いかに罪を犯さないかということではなく、いかに自分の罪を認め、悔い改めるか、ということだと思います。いつでも神様の赦しを覚え、素直に神様の御声に聞き従うことができるよう、祈りつつ歩んでいきたいと思います。
S・E さん
救いの証

私は太平洋戦争の始まりの時に生まれた72歳です。
今から30年程前、妻に誘われ教会に行き始めました。日曜日の礼拝や、土曜日夜の男性バイブルクラスに出席しました。男性バイブルクラスは40~50歳位の求道者や信徒の方の集まりで、10人位が出席し、聖書を学んでいました。先生がいつも「今日の箇所から何か一言ありますか? 」と尋ねられると、私はいつも「これはイエス様の十字架のことでしょうか」と、いかにもそう感じたかのように答えていました。
すると宣教師の先生は「そう、そう、そうです」と、喜ばれました。その時は意味が分らなかったのに、まるで学校の授業の答えのように、考えて、正解しようとしていました。神様は賢いお方です。こういうところから私を捕えてくださいました。後になって、その十字架がどれほど大切な事かを知りました。
10年間程、教会に行ったり行かなかったりしていました。もともと信仰心が薄く、求道しているというより、妻が喜ぶから行っているという感じでした。そのような時に、妻が病気になりました。癌の宣告を受け、即手術という事態を迎えました。検査期間の入院中、妻と二人で初めて必死に祈りました。
不真面目に教会に通っていましたが、既に神様は私をしっかり捕えておられました。私はその時が自分の顔を神様に向けた時だったと思います。自分が祈っている神は御利益主義の神ではなく、全てを支配される全知全能の方であることを信じました。そのお方は妻の下腹部の癌を良性の腫瘍に変える力を持っておられる。その力を私にお示しください、と祈り、神は私の祈りをそのまま聞いてくださいました。
世間の人は、「もともと医者が誤診したのでしょう」と言うでしょう。けれど、私は誰に何と言われようと、神様の力を信じました。そして1988年6月に洗礼を受けました。自分が罪人であることは告白しておりましたが、結構漠然としたものでした。礼拝の説教を聞き、聖書を読むうちに人間の罪の深さを知り、自分がまさにそのような者であることが分りました。自分の罪はいかに努力しても自分で拭い去れるものではなく、私のその罪の為にイエス様が十字架にかかってくださり、そのことだけによって私が清められ、救われたことを確信しました。
洗礼を受けて20年余り、勝手気ままな祈りを数多くしてきました。なかなか神様は私の思い通りに祈りをきいてくださいません。しかし神様は御心に沿う祈りは必ずきいてくださることを知っている今、たとえ祈り通りにならなくても、神様に感謝する心を私に与えてくださいます。
イエス様は私を愛しておられます。それを信じ、日々御言葉を頂き、神様と交わりをなし、妻と二人で教会に行き、愛する兄姉と交わりを持つこと、お互いに祈りあうこと。これが私の喜びです。
U・T さん
救いの証し

救われて今ある感謝は、自分中心の世界から、神中心に物事がなされているという考えにさせられ、平安があると思います。 自己中心の世界はいら立ちと不安に陥り、気持ちが落ち着かない。神に委ねていると、自分にとって良き事も悪しき事も最善であると、納得がいく。それと神の絶対的祝福と、守りがあると思います。
私がキリストを受け入れたのは、高校2年生のときで、友達の紹介で、教会の門をくぐりました。今考えると不思議な感じがします。その友達とは、小学校の1年生からの友達で今現在も友達であります。 彼のお姉さんが、熱烈なクリスチャンであったせいであります。今現在東京で牧師夫人であります。教会の皆様の優しさと理知的で紳士的なところに惹かれて通っていました。そうしてある日、 神学生が「イエス・キリストは私たちのため自ら十字架にかかって死んでくださった。自分の罪を認めイエス・キリストを受け入れませんか」と迫られ、腹の中で「ほうっておいてくれ」と思いつつ、 「分かりません」と答えましたら、復唱して祈ってくださいと言われ、祈ったのを覚えています。
しばらくして、教団の高校生のキャンプに誘われてもう一人の友達と3人で参加しました。最初は少々不純な思いでおりました(女の子と親しくなりたい)が、キャンプの中間の日に、誘った張本人が、 「これは学校の授業と一緒や。帰るわ」と、さっさと山を降りていってしまいました。でも漠然と毎回メッセージを聞いていて、キリスト教は理にかなっていると思わされていました。また神学生がおっしゃっていたことが分かってきました。 テーマ聖句がエペソ人への手紙の5章15節から17節までで、特に16節「機会を十分生かして用いなさい。悪い時代だからです。」この御言葉を通して自分はなんと神様から離れた自己中心で、 いま生かされている自分を用いることが出来ていないと気づかされました。最終日の晩に先生のメッセージのあと「イエス・キリストを受け入れたい人はそこに立ってください」との勧めでどきどきしながら立ったのを覚えています。 それからは全てが変わって見え、周りにあるものがみな意味があるのだ、また全てがいとおしく思えました。
「生まれる前から運ばれたものよ。あなたが年をとっても、私は同じようにする。あなたが白髪になっても、私は背負う。」イザヤ46章3~4 節。生まれる前からクリスチャンとして選んでくれ、 また白髪になるまで背負ってくださることを確信しています。罪から贖い出してくださる方はこのイエス・キリスト以外にはなく、私たちを神と正しいかたちにしてくださる方は、この方以外にはない。 再臨を待望しつつ馳せ場を走りぬきたく思います。
K・Y さん
証し

まず簡単に自己紹介を。生まれは昭和18年12月、山口県熊毛郡にて、血液型はA型(中身はどうしたことかO型)、趣味は温泉での温冷浴、 健康法は西式、ホームドクターはイエスキリストです。
二十一才の春に「汝わがもの」と掌に刻んで下さり、今日までひと時も目を離さないで一緒に歩いて下さいました。あっという間の四三年間、 イエス様の為に何のお応えも出来なかったけれど、志はあの青年期のままですとハーモニカで賛美させていただきます。(神の御子にますイエスのために)
これまで背後で祈り支えて下さったマナ(屋号)をこの三月で閉店します。三三才で主人が脱サラして二三年間、田舎の大草原で育って商売のしの字も解らない私を、 神様はマナという船に強いてお乗せになりましたが、その小さな店で家族を養っていただいたことは、憐みの他ありません。
スタートの時、私は自分の無能を知っていましたから、「イエス様、店長になって下さい。それと、もう一つ、五才、七才、八才の三人の養育者になって下さい」と責任を委託しました。
そうは言っても母親です。仕事より子育てに責任を感じ、朝ごとに「M・J・M(子供たちの頭文字)をよろしく」と祈りつつの生活でした。「汝の力は汝が日々求むるところに従わん」とのお言葉に励まされました。
その間に夫の胃ガン、義母の肝ガンでの戦いの日々、また超未熟児の孫や新しい生命の誕生を織り込んでの忙しい生活でしたが、いつも約束通り主が働いて下さり、病を癒し、孫の生命の成長を見守ることが出来ました。
重荷と無能と思った船が、実は私にとって真実な方々と出会えた、神の用意なさった助け船でもあったわけです。人生は他人との比較ではありませんが、皆さんと同じように涙の日、喜びの日、痛みの日常を、イエス様は折にふれ慰め、涙の日には「私だけで十分ではなかったのかい」とささやかれ、再三「あなたで十分です」と魂を充電していただきました。
信仰を得た故に心は自由人だったわけですが、この身の不自由に暗い顔をイエス様に向けると「お前の馳せ場はここだよ」と言われ、肝を据えた日を思い出します。そのなかで、配達は外に出られる喜びと、神の家族、マナの家族の方々への祈りと感謝と賛美の時として、嬉しい時間でした。
泥棒に二回(包丁が置いてあったり)、詐欺に一回ひっかかりましたが、命が守られてよかったと楽天的でした。税務署が一度も来なかったのも寂しいやら嬉しいやらでした。
またM衣ちゃんという子が中学不登校でしたが、マナにはせっせと通って来て手伝ってくれたり、おじさんおばさんに料理を作ってくれたりも懐かしい日々です。けれども「何とか」と知人の元教師に勉強を習って無事高校に入学し、今は大学二回生になってくれたことに喜びを分けてもらいました。
おかげで三人の子もそれぞれに家庭を持ち、孫も授かったし、嬉しい悲鳴を上げる日々に、こっそり私に出来る霊教育と称して、温泉の時、散歩の時はいつでも賛美歌を歌います。 これからは国際化社会ですから、英語の賛美歌も取り入れ、自分の老化予防にも用いたいと考えています。
そして億という人間の中から、縁あって出会えた義理の娘、息子たちを愛し通していこうと思っています。田舎には九六才の母もまだいます。今度はゆっくりと側にいてやれることを楽しみにしています。地上での命は神のみぞ知るところですが、ありがとうの心で満タンにしていただいて旅立てるように、日々自らを訓練していきたいと思います。
「安心して行きなさい。主があなたを見守って下さいますから」との御言葉に信頼して前進したいと願います。思い出した時、どうぞ祈りに加えて下さい。
K・H さん
救いの証し

私が初めて教会に足を運んだのは1973年(昭和48年)23才の頃だったと記憶します。 当時の私の身分は大学中退のままで、定職にもつかず、わずかなアルバイトで、その日暮らしの生活を続けているような有様でした。
1969年(昭和44年)に大学進学のため四国から大阪へ出てきたものの、学園紛争を口実にして、大学に登校せず、ロック音楽、パチンコ、麻雀、読書に明け暮れる怠惰な生活に陥ってしまい、 両親をはじめ周囲の人々の期待を裏切り続けました。最初の間こそ、そういった自堕落な生き方に対する罪悪感を感じていましたが、日が経つにつれ、それは性質(たち)の悪い居直りに変わっていきました。 当時の私は、人生を斜めからしか見ることのできない、ひねくれた青年であったに違いありません。
教会に通っていた動機も、実は「孤独からの逃避」「人恋しさ」「自分の居場所を見つけたかった」からに過ぎなかったのではないかと思えます。ですから、礼拝に出席し、説教を聴いても、 「牧師さんの単なるお話」としか感じられず、「生きているキリスト」という概念が実感できませんでした。それでも、教会の皆さんの優しさに甘え、また、礼拝後の交わりを楽しみに出席していた次第です。
そんなある日、学生時代から交際していた女性との別れが決定的となりました。大きな喪失感と自己嫌悪に襲われた私には、未来に対して何の希望もありませんでした。 その日、自分のアパ―トに帰って、何の気なしに新約聖書をめくっているとマタイ伝5章のみ言葉が目に入ってきました。「悲しんでいる人たちは幸いである。 彼らは慰められるであろう」。それまでにも何度か、読んだり聞いたりしたことのあるみ言葉でしたが、その時、私はそのみ言葉の中に、初めてキリストの人格を実感しました。 つまり、そのみ言葉にキリストの圧倒的な臨在感と愛の迫りを感じたのです。「キリスト・イエスは生きておられる。今、人間では語りえない、なぐさめのみ言葉と実在をもって、私を愛していてくださる」 と実感した私は、心から「今、祈りをもってキリストに近づきたい」と願い、たまたまその日が水曜日だったので、教会に電話して「祈祷会に出席してもよいですか」と尋ね、初めて祈り会に出席しました。
しかし、その出来事も、私の決定的な回心とはなりえませんでした。まだ自分の罪についての深刻な認識がなかったからです。 ですから、教会の皆さんから洗礼を受けるように勧められるのが煩わしく思えました。また、伝道集会に出席して決心を促されることに抵抗を覚えました。
中途半端な気持ちで教会生活を続けていましたが、とうとう、1975年(昭和50年)9月の暑い夜、一人の姉妹から「イエス様を心に受け入れないなら、教会に来るのをやめなさい」と決断を迫られました。 しかし「洗礼を受けてしまったら、もう二度と今のような生活に戻ることができないのではないか」という恐れが心中に生じ、あまりの苦しさに油汗が流れ出ました。 さらに、途中からその席に加わった一人の兄弟から、心の底を見透かされるような、ゆさぶりをかけられた私は、とうとう清水(きよみず)の舞台から飛び降りる思いで「イエス様を信じます」と告白し、 キリストを心にお迎えしたのです。夜中の遅い時間でしたが、斎藤先生が眠そうな目をこすりながら、かけつけてくれ、罪の告白を導いてくれました。私は涙と鼻汁の中で自分の罪を告白し、悔い改めました。 そのあと「心安かれ、汝の罪許されたり」と頭に手を置いて祈っていただきました。
それまでに感じたことのない平安が心一杯に満ちあふれました。「これからはイエス様がいつも私と一緒にいて下さるのだ」と思うと、大変嬉しくありがたく、食事の祈りをするたびに感謝の涙が溢れました。 「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った、見よ全てが新しくなったのである」(コリントⅡ5の17)とのみ言葉が与えられました。 余談になりますが、このみ言葉から次男の名前を命名しました。その年の10月に八幡市の木津川で洗礼をさづかりました。その後、定職が与えられ、結婚を経て、今日に至っています。
救われた後も、私はいくつかの世的な悪癖から離れることができませんでした。しかし神様は私に対し、ある時は「結婚」を通して、またある時は「偽善の罪」を示して、一つずつ、 それらのことから解放されるように導いてくださいました。主の御名を賛美せずにはおれません。
F・Y さん
救いの証し

20年以上にも及ぶ付かず離れずの求道生活を経て、イエスさまを受け入れ、今年で23 年になります。聖書に「信じない者にならないで信じる者になりなさい。見ずに信じる者は幸いです」 ヨハネ21:27、29)というお言葉があります。自我が強く、自分の人生は自分の力で勝ち取っていくものだと思い上がり、 差し伸べられていた神様の御手を振り払ってばかりいた私でした。 この日から、神様が共にいて下さることの幸いを、またこのお方に全てを委ねることができる幸いを知り、 心が豊かになった思いがしたものでした。
私が生まれた時、父は既に亡く母と私達姉妹5人は満洲から引き揚げて来ました。2才の時です。敗色濃い昭和 20年以降の満洲での生活、女ばかりでの引き揚げは想像を絶するものがあったと聞いています。この切迫した時代を経て無事帰国できたこと、 今も続く残留孤児の姿は紙一重で私の姿ではなかったか・・と思う時、今ある幸いを感謝せずにはいられません。
子供の頃、熱心なクリスチャンだった母から「イエスさまはそよぐ風のようでいつも身近 におられることを、そして人を騙すことはできても神様を騙すことはできないのだ」と教え られました。いたずらが過ぎた時、いつも私を膝に抱き「神様は何でもご存じよ・・」と戒めてくれました。そのことは長い年月を経た今も私の心に深く残っています。
母の死後、12才だった私は長姉の元で過ごし、通っていたミッションスクールでも神様との出会いがありました。その後も付かず離れずの、イエスさまの目からは生ぬるい生活が続いていましたが、 ある日、その姉が「くも膜下出血」で亡くなりました。倒れ、苦しみながら意識を失っていった状態を目の当りにした時の私の衝撃は言い表しようもありませんが、 姉がその3年前に救われていたことを初めて知り、姉の、苦労を感じさせない日々の明るさ、あの七転八倒の苦しみの後とは思えないほど穏やかな最期の顔にふれた時、 これは心に平安を与えられている者の姿ではないだろうか・・と、しばらく忘れていたイエスキリストというお方を鮮烈に呼び起こされました。 それからは、近所で行われていた家庭集会での聖書の学びや交わりが私にとって無くてはならないものとなりました。自分の愚かさを神に詫び、決断を与えられることを祈りました。
母の信仰が礎となり、姉の信仰によってそれは確定的なものとなりました。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が全てのことを働かせて益として下さることを、 私達は知っています」ローマ(8:28) 「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある(伝道の書3:1) 聖言に生かされる日々の生活を感謝しています。
F・M さん
キリストの言葉を地域の方へ

以前私は、自分がクリスチャンであることをあまり知られたくないと思っていました。 7年前(1997年)定年になった時、クリスチャンの友達に誘われて、枚方市で持たれている健康リーダーの学びに参加し、若い方々と一緒に一年間健康についての学びをしました。最後にグループで、お別れ会を持った時、 「私達はクリスチャンです」と言った一言で「イヤアイイね、私も教会へ行きたいと思っている」と一人の婦人が言いました。
早速、教会を案内し、家庭集会の案内もしました。彼女は熱心に通い始めましたが、彼女が熱心になればなるほど、ご主人様が、今まであまり行かなかったお寺さんへ通うようになったと言います。 そのうちに彼女の言葉や行動に、ある日ご主人様が、「一度だけ教会に行ってみる」と言われ、一度来られたのが二度三度と、家庭集会にも集われるようになり、 3年前二人揃って洗礼を授かりました。今年70歳を迎えられたご主人様は、教会で持たれた敬老感謝会に、ニューフェイスとして加わり、感話のなかで「今までで一番よかった事は、教会に来て救われたこと、よき伴侶が与えられた事です。」と言われ、教会では、何時も何でも喜んで奉仕されています。私は、主がなさって下さったみ業を、多くの方々に伝えなければと思いました。
私の楽しみは、主人が召されたあと使わなくなったガレージに花を一杯咲かせて、一日に何度か花を見ては、主に感謝することです。 花を通して近所の方々や、道行く人々と会話がはずみ、集会にもお誘いします。ある夕方、近所の姉妹と花を見ていると、二人のご婦人が、私の庭の花をみて話しています。私は姉妹の友人かと思っていました。 姉妹もまた私の友人かと思っていたと言います。四人で話がはずみ、「まあ中に入って」と言い、会話は自然と信仰の話につながり、主を中心とした集会のようになりました。後で分かったのですが、 その日、二人は、久しぶりに会って、 夜、(私の家の前にある)小学校で催されるホタルの鑑賞会に来たそうです。時間が少し早いから私の庭を見ていたら、思いがけなく、知らない家の中に入り込んで、 2時間近く導かれるままに過ごし、にぎやかだったホタルの鑑賞はとっくに終り、すっかり暗くなっていました。
それ以来二人は家庭集会に集われるようになり、そのうちの一人は最近、私の近くに引越して来られた方で、自分のご両親を引き取り生活しておられますが、夜、よく相談に来られます。 ご両親のこと、子供さんのこと、自分の仕事のこと、祈ってほしいと言われ、一緒にお祈りし、聖書を読む事を奨めています。先月もたれた家庭集会に初めて出席された方は、私が絵を習っている先生です。 ある日、「今度一度だけFさんの家に寄せていただくわ」と言いました。私の話の中に、神様に愛され、何時も守られていること、どんな時にも神様の最善を信じていること、何事も感謝し喜んでいる事、 家庭を開放している事、等々、私の話を聞いていると、「Fさんのようになれたら、楽でいいわー」と言い、「どんな話か一度だけ聞いてみるわ。」と言って集われました。 後は主が最善へと導いて下さると信じます。
私は家の前に、み言葉と花の絵を描き集会案内を掲げています。この集会案内を掲げたことによって、私の心は大きく開かれました。今まで話した事もない方から声を掛けられたり、み言葉の意味を聞かれたり、 道行く人々が、立ち止まって、み言葉を読んでいる姿を見かける時、……あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水を汲む、その日あなた方は言う、主に感謝せよ、そのみ名を呼べ、 そのみ業をもろもろの民に伝えよ、そのみ名のあがむべきことを、語りつげよ。…(イザヤ12:3)と以前与えられたみ言葉を思い浮かべ、福音を伝えるために「主よ用いて下さい」と祈る日々です。